医者「カテーテルアブレーションをしませんか。」
私「え、それは何ですか。」
医者「心臓の内側を、カテーテルで焼いて心房粗動を止めることができるのです。
詳しくはココに書いてあります。よく読んで、ハンコを押して持ってきてください。」
「週に一回東京から有名な先生を呼んでやっています。」
私「はあ、週一ですか。」
「超有名ですか。」
「まず、心房粗動って何ですか。」
医者「不整脈です。頻脈性です。」
ひんみゃく?
心臓が通常レートよりも早くなることですが
この時点で、何も知りません。
心臓病初心者なのでなにもわからず、不安になりました。
まったく、病院知らずの健康優良児だったものですから。
体力に自信ありの人でしたから。
あせらされてるような感じだ。
これは、セールスマンに騙される、よくあるパターンだ。
なんか、マジヤバい。
て、いう会話が続いていったん帰りましたが、家内と相談して、何か納得できないし、
セカンドオピニオンをした方が絶対いいよ。ということになりました。
不信感というのとは違う感じの、
この段階では、何も考えられないではないですか。
初めて、心臓に異常をきたした、不整脈初心者なのだから。
そうだよな、病気のことを全然知らないで、いきなり心臓手術もないだろう。よし、いい病院を探そう。
何か、しっくりこないし、この、焦らせる感じは・・・・と
ウサギのように臆病になったのでした。
心臓の中を焼くとはずいぶん思い切ったことをするもんだ。
人に聞いたり、ネットで調べたり、よさそうな心臓病院を探し、いざ出発しました。
私の基準としては、会社は従業員の態度で選べ、
ということです。
病院でいい病院は、看護師さんの年齢構成が、バランスがとれていることが大事です。
ベテランは自分の経験を下の者へ伝えていかなければなりません。
きちんと待遇が保証されてなくてはいけません。
若くてきれいな子が多い病院はなんか怪しい。
ワンマンの医者で、自分の好みで選んでいるのではないか。
なんて、考えちゃいます。
ここまでが前回までのあらすじ
なんと実の兄に似そっくりではありませんか。よし決めた。ここで話を聞こう。
今までの経緯を話し、カテーテルアブレーションという
よく知らないものを進められて困惑している。
それで、ここに来てみたんです。
いきなり来ちゃったんで、その発作時の心電図ももらえてませんと正直に言いました。
それでいいですよ。しばらく様子をみましょう。
先生も落ち着いているし、看護師さんの年齢構成もバランスが良い、いいではないですか。
薬(不整脈薬と血液サラサラ)をもらって帰りました。これで、一安心。
薬代が高かった。これでは病院代薬代を合わせると、月10000円近くいくではないか。これからの人生に暗雲が立ち込めました。
この時点では、ここで薬をもらって飲んでいればいいんだ。
薬を飲んでいる人はいっぱいいるんだ。
薬で押さえがきくうちは、手術なんてしなくてもいいんだと気軽に考えていたのです。
これで良しと、
心臓手術ですよ。
怖いですね。
そして、投薬を続けて1年後、
もう治ったと思っていたのに。
このあと、投薬でこのまま過ぎていくと思っていたのですが、風雲急を告げるのです。
このあと、薬で粗動が止まらなくなるなんて思いもよらずに。
もう治った、大丈夫だと思っていました。
お酒も飲んでいました。
飲んでいた薬は新薬で納豆が食べらる新薬でした。ただし高価
従来の血液サラサラの薬剤は一般的なもにはワーファリンがあって、
それを処方されると納豆が食べられないということでした。
それと、ワーファリンは扱いが簡単ではなく、飲み薬が便利です。
しかし、薬が新薬なので2週間分しか出ないので、月2で通うことに。
血液サラサラ、脳血栓を防ぐプラザキサは結構な値段でした。
これを払い続けるのか。
それと不整脈薬はリスモダンこの薬を飲み続けます。
しかし、いままで薬なんぞ飲んだことがなかったので、飲むのが大変でした。
薬ケース(曜日ごとに分かれている)なんかも買ってきたけれどなかなか習慣になりませんでした。
また、体調が戻ると気が大きくなって来て、
遠い病院まで通うのが大変になってきた。
それで、1年後には駅前の分院に変えてもらって楽になりました。
分院は小さいけれど、JR直結で大変便利。
24時間ホルターもたまにしました。
看護師さんとも気が合って、楽しく通院していたのです。
薬は少しさぼっていました。体調がいいのと飲まないので、
薬が溜まってきました。
誰だって飲みたくないし、
副作用(のどが渇く)があったので、
私には、薬で押さえる限界が来てしまったのです。
また、不整脈薬が逆に、不整脈を誘発することもあるそうです。
要するに、根本的な治療ができていなかったので、ダムが決壊するように再発したのです。
もちろん何度も心電図、24時間ホルター検査もしたし、心電図も、
完全右脚ブロックのほかは所見もなく、何事もなく過ごしていました。
職場もまた、変わりました。自宅から近くなりました。
でも、何か予感があったのか、ご先祖様が命じたのか、カテーテルアブレーションは研究勉強していて、
横須賀の病院に決め、東京に行く用事があったついでに、
横須賀まで足を延ばして、遠くから病院を見たりしました。ピンク色の巨大病院でした。
まあ、来ることはないと思うが、
このピンク色の病院が、年間1000件のアブレーションをする。NO1病院か、
なんて、興味本位で考えました。
横須賀観光もしました。
港にあった、戦艦三笠も見学しました。バルチック艦隊と戦ったその船は、明治風で歴史を感じました。
東郷平八郎のように、甲板上部にたって、ずっと先を見つめました。
人生何があるかわからない。むやみに怖がる必要はない。
海も眺めました。
横須賀は港町、北海道の港町で生まれた私は何か懐かしい感じがしました。
海の匂いが気に入りました。
横浜にはない、すこしくだけた感じというのか、旅人の街のような哀愁を感じたのです。
水兵たちの、ざわめきが聞こえる様でした。
月日は矢のように過ぎて、これで、安心だなって思っていたのに、
どんより曇った、冬も終わり、浅い春のある日それはやってきました。
初発作から1年後、
春まだ浅く、雪がまだぱらぱらと残っていた日曜の朝、
まったく悪い予感も兆候も全くなく。
すっかり安心しきっていました。
人生は実に困難なものですね。